神楽坂の達人
「Viale(ヴィアーレ)」オーナー、染織家
2013/04/17
神楽坂、早稲田通り。
大通り沿いに
真っ白で可愛らしいおうちがあります。
明るい光が差し込む
大きな窓が印象的です。
それが、「糸の手仕事 Viale(ヴィアーレ)」。
色鮮やかな織物のアトリエです。
ヴィアーレでは、一つひとつ草木染めした色とりどりの糸で、
こだわりのあたたかな作品を作り上げています。
そのすべてが、尾嶋さんの手紡ぎ・手織りです。
ともに育った我が家をお店に
―ヴィアーレができてどのくらいになりますか?
去年の12月でちょうど40年になりました。
―40年!綺麗なので新しく見えますね。
途中で模様替えをしたんです。建物自体は親の代からだから、もっと古いですよ。私も小さい頃この家に住んでてね、ここ(1階)は絵を描いたりして遊ぶ場所だったの。ずっと絵を描くのが好きだったから。私が機織りを仕事にしようと思ってから改築したの。
―お店のイメージは?
初めは、お客様に自然に入っていただけるような感じにしようと思って、家のリビングのようにしていたんです。テーブルやたんすがあったり、窓ももっと小さくて。たとえばヨーロッパの田舎の一軒家みたいな感じ。中に入ると、ふつうの家のリビングで、絵があったり、食器があったり。
―素敵ですね。
そういうところで始まったんですよ。ふつうのお家へ「どうぞ」みたいな。お店というよりは、くつろげる場所。
―模様替えをして様子は変わりました?
うん、少しはお店っぽくなったかな(笑)。コンセプトとしてはギャラリーですね。
お母様が紡いだ織り物
―機織りを始めるきっかけは?お母様がなさっていたんですか?
母は全くしなかったですね。逆にずいぶん晩年になって私が母に教えたくらい。母はずっと、私が織ってても全然興味を示さなかったの。「どう?やってみれば?」って勧めたこともあったけれど、全く乗って来なかった(笑)。
でも母が84歳くらいのとき、たまたま機織り機がひとついらなくなったから、母の部屋に置いてみたの。縦糸をしかけて、横糸もセットしてあげて。「こうやったら織れるのよ、どう?」とか言ってほっておいたんです。そしたらある日、母がやってみたんですね。そして、すっごく綺麗なものを織ったの。私もびっくりしたんですけれど。本人も「すごく面白かった」って言って。84歳にして初めて機織り機を触ったの。私がそれまで何回言っても全くしなかったのが急にやり始めてね(笑)。「こんな面白いんだったら、もっと早く始めればよかった」なんて言ってた。それから3年間くらいは出来たのかな。マフラーとかテーブルセンターとか手提げバッグとか、色々いろいろ織って。
―素晴らしいですね。
それで、亡くなってお通夜のときにね、せっかくだから母の作品を見てもらおうと思って、ぜんぶ出してお葬式の会場に急きょ飾ったの。そしたらね、90点くらいあったの。もう、すっごいでしょ。小さいものも大きいものもあるの。大きいのは敷物とかね。もう、びっくりした。
―とても器用でいらっしゃったんですね。
そう。それに、綺麗なものが好きな人だったのね。色も好きだった。きっと色々なものへの感覚が良い人だったんだろうなと思うんですけれど。なんかね、母は自分が行った場所とか綺麗な景色を想像して織るらしくて、「これは戦場ヶ原のあれよ」とか、「ここはどこどこの海」なんて言いながら織ってた。そうして一つひとつ織ったものが、すごく素敵だったんです。娘の私が言うのも変なんですけれどね。素敵だった。
お裁縫が大きらいな少女時代
―小さい頃からお裁縫はお好きだったんですか?
お裁縫はね、だいっきらいだった(笑)。お裁縫というか、いわゆる学校の家庭科でやる裁縫はだいっきらいだったの。
―あの、みんなで決まった同じ物を作る?
そう。もうだいっきらい(笑)。高校2年生まで家庭科が必修だったんだけれど、「今日は家庭科で裁縫がある」と思っただけで電車の中で気持ち悪くなって、途中で降りちゃったくらい。「学校でする家庭科」がきらいだったの。みんな同じで、作りたい物を作れるわけじゃなくって。何かつまらなくないですか?(笑)
―そこからなぜお裁縫が楽しくなったんですか?
だんだん後になって、編み棒を持ったりする手仕事が「アート」になるんだっていうことが何となくわかってから、楽しくなりましたね。そこからは一生懸命、イメージを形にするための練習をしました、たくさん。