地元暮らしをちょっぴり楽しくするようなオリジナル情報なら、地域情報サイト「まいぷれ」!
文字サイズ文字を小さくする文字を大きくする

新宿区地域ポータル「しんじゅくノート」

新宿の新店情報&ニュース

新宿名物、復活!内藤とうがらしプロジェクト

しんじゅくノートは「内藤とうがらしプロジェクト」を応援しています。

はじめに

江戸時代に一大ブームを巻き起こした唐辛子が、約400年の時を経て現代に復活。
宿場町があった内藤新宿で育てられ、江戸で瞬く間に人気になった「内藤とうがらし」。
新宿の繁栄のさなかに一度栽培が無くなりましたが、2010年「内藤とうがらしプロジェクト」が発足。
新宿地域のブランド野菜の確立を目指してさまざまな普及活動を行い、2013年伝統の江戸東京野菜に認定されました。
歴史ある新宿の名物として再び脚光を浴びている「内藤とうがらし」の面白さと魅力を感じてください。

江戸時代に一大ブームを巻き起こした唐辛子が、現代に復活!

 

内藤とうがらしは、江戸時代の宿場町、内藤新宿で育てられた野菜のひとつ。当時、蕎麦が流行していた江戸では、薬味として瞬く間に人気となり、新宿近郊の農家がこぞって栽培をしていました。
内藤とうがらしは地域ブランドとして確立されていましたが、やがて新宿宿場の繁栄の中で、畑がなくなり、新宿から唐辛子の栽培がなくなりました。
それから約400年経ち、2010年に内藤とうがらしプロジェクトが発足。長い眠りから目覚め内藤とうがらしは現代に復活しました! 現在では、伝統の江戸東京野菜に認定され、歴史ある新宿の名物として再び脚光を浴びています。

内藤とうがらし「誕生・盛衰・復活」ものがたり

1.宿場町「内藤新宿」で誕生

徳川家康に功労を認められた内藤家2代目清成は20万坪にも及ぶ広大な領地(東は四谷、西は代々木、南は千駄ヶ谷、北は大久保に及ぶ)を拝領。その後、江戸中期には内藤藩の領地の一部を利用して出来た新しい宿場町が「内藤新宿」と名付けられました。
栄え始めた江戸では、白米を食べる庶民の間で「江戸わずらい」が増えたため、打開策として野菜作りが推奨されました。内藤家も様々な野菜を作り、なかでも内藤とうがらしと内藤かぼちゃは評判を集めました。

2.江戸の町で「一大ブーム」に!

庶民が唐辛子を口にするようになり、食文化がスタート。きっかけは当時大流行したお蕎麦でした。江戸時代には3700軒もの蕎麦屋があったとされ、ぶっかけそばの薬味として七味唐辛子が人気に。蕎麦に合うすっきりとした辛さの内藤とうがらしが江戸の町で頻繁に食べられるようになり、内藤とうがらしは一躍人気となりました。
さらに、内藤新宿近郊の農家が換金しやすい唐辛子を生産し始め、年々生産者が増えたことにより、新宿は唐辛子の一大生産地として栄えていきます。収穫時期である秋になると、新宿一帯が真っ赤な絨毯を敷いたように、赤く実った唐辛子畑の光景が見られるようになりました。

3.町の都市化と「鷹の爪」登場により衰退

江戸の町の繁栄につれ、唐辛子畑は甲州街道や青梅街道に沿って西へ移動。人口増加の波とともに、内藤新宿は宅地化が進み、畑がなくなりました。また、辛味の強い「鷹の爪」の出現により衰退に拍車をかけます。新宿からとうがらし農家がいなくなり、唐辛子の主流も「八房種」から「鷹の爪」に変わった為、次第に内藤とうがらしは忘れ去られていきました。

4.「新宿名物」として再び現代に復活!

絶滅後、約400年を経て復活へ導いたのが、江戸の食文化を現代に伝える活動をしている市民グループ。
2008年、新宿の新しい歴史文化をつくる想いで江戸時代の内藤新宿の歴史を調べていたところ、唐辛子が地域ブランドになっていたことを知りました。
2010年、その復活を考え「内藤とうがらしプロジェクト」が発足しました。
そして、復活のために当時の種を探し、発見。数粒の種を山梨の畑で隔離栽培し、固定種に育てることに成功しました。 指定農家による固定種の栽培・生産が可能になり、2013年には伝統の「江戸東京野菜」に認定され、内藤とうがらしはブランド野菜として復活を遂げました。そうして現在、新しい新宿の歴史文化を創造し、地域の活性化に役立てるべく、新宿区内の各地で内藤とうがらしの普及活動が行われています。

東京のブランド野菜として注目を集め、2013年に江戸東京野菜に認定!

江戸東京野菜とは、江戸時代から昭和40年代頃まで都内の農地で栽培し、日本の中心部で庶民の食生活を支えてきた固定種の伝統野菜のこと。 品種改良されていないため生産性が低く、全国的に流通していない希少植物といわれています。
特に味や形が個性的で交配種にはない美味しさが魅力です。 品名に栽培を始めた農民の名前や地名が使われているなど、それぞれの野菜にさまざまな物語があり、東京の野菜文化を今に伝える大事な存在となっています。 現在では、内藤とうがらしを含め42種類が認定されています。

「江戸東京野菜」について

現在の東京都は江戸とよばれた地域から比べてかなり大きくなっています。これは明治26年に三多摩地域が神奈川県から東京府へ移管されたためです。東京で伝統野菜を生産しようとしたときに、江戸と呼ばれた地域はもともと耕作地がほとんどなく、その後の開発もあり厳しく地域を限定してしまうと、もともと生産性の低い(F1品種に比べて耐病性などが低く収量も少なかったり、現代の食生活や流通になじまないサイズであったりで)江戸からの伝統野菜の生産量を増やすことが難しいため、「江戸東京」という呼称にし、広く東京都内で生産されたものを都民に提供できるようJA東京中央会で平成23年にこの呼称を使用していくことを定めています。

新宿御苑は、江戸時代 徳川家臣の菜園だった!

新宿御苑のルーツは、いまからさかのぼること400年以上前。1590年、徳川の家臣・内藤家2代目の清成が現在の新宿の地に屋敷地を拝領し、「内藤町」と命名したことに始まります。
その後、江戸時代、内藤家7代目の清枚(きよかず)の時に信州高遠城主となり、新宿御苑の地は下屋敷となりました。
内藤とうがらしの縁は、まさに江戸時代のこの地にあります。
内藤家の下屋敷の菜園で「内藤とうがらし」の栽培が始まり、江戸の蕎麦人気とあいまって一躍江戸中に広がりました。内藤新宿近郊の農家も唐辛子を作り始め、時期を迎えると真っ赤に実った唐辛子が菜園一帯に、まるで赤い絨毯のように広がっていたと伝えられています。

新宿地域の取り組み

 

新宿の歴史を映す内藤とうがらしは、プロジェクトの活動に共感した区内の人々に支えられています。それぞれの地域で栽培やイベントを開催し、新宿地域全体を盛り上げています。

早稲田・高田馬場

内藤とうがらしを地産地消。地域ブランドを確立させ、街を元気に!

2012年に早稲田・高田馬場で「アトム通貨 内藤とうがらし復興プロジェクト」が始動。
約60企業、店舗、団体、学校が一丸となって内藤とうがらしを地域ブランドとして大切に育てており、年々規模が拡大しています。
地域で生産されたものをその地域で消費する地産地消を目指し、景観のみならず食の視点からも楽しんで取り組んでいます。
毎年10月には高田馬場周辺の飲食店で内藤とうがらしメニューが食べられる街バルイベント「バル辛フェスタ」を開催。
内藤とうがらしを使った多様な料理の食べ歩きができるとあり、沢山の来場者で賑わいます。

四谷

江戸時代から続く「唐がらし売り口上」で内藤七色唐がらし(七味)を四谷名物に!

毎年秋には、新宿区四谷地区協議会が定期的に開催する、ワークショップや地域イベントで、内藤とうがらしを使った七味唐がらしの売り口上付き調合実演販売を行っています。

江戸っ子は、新物七色のネタの調合を見て買ったので、七味と言わず「七色(なないろ)」と呼んでいました。
七色唐がらしの売り口上「江戸は内藤新宿八つ房の焼き唐がらし~」を受け継いで、後世に伝えています。
また、協議会の「花いっぱい運動」の一環として、内藤とうがらしのプランターも展開。毎年春には地域に向けて1千本の苗木の頒布も行っています。

百人町

採れたて新鮮な江戸東京野菜を常設販売。内藤とうがらしが地域交流のきっかけに!

JR大久保駅と新大久保駅の周辺に広がる新宿区百人町では、国籍や宗教を越えたご近所づきあいを「百人町5丁目町会」として活動しています。
大久保南口駅前の(株)アイロリ・コミュニケーションズでは苗の販売を、北口の蓬治療所では毎月第一月曜に持ち寄りランチを行っています。
今田新聞販売店では、都内の畑で収穫された旬の野菜を販売。内藤とうがらしを含む、江戸東京野菜や関連商品が購入可能です。
毎年5月には今田新聞店の読者に内藤とうがらしを配布しています。

新宿一丁目(旧花園町)

ご近所のみんなで栽培。通りにプランターを並べて街の活性化のアイテムに!

新宿一丁目(旧花園町)地域では、それぞれの町会ごとに玄関口やベランダで内藤とうがらしの栽培を開始。
花園通り沿いにプランターを並べ、道行く人を楽しませています。街の発展を目指した有志が集まり、地域全体が同じ価値観を共有するための旗印として内藤とうがらしを使ったイベント行い、どんどん活動の輪を広めています。

内藤とうがらしプロジェクトでは、歌とキャラクター(ピリッチ・カラッチ)をつくり、内藤とうがらしの普及活動をしています。

こちらの記事は株式会社プリアップ様の運営する「新宿名物、復活!内藤とうがらしプロジェクト」より転載させて頂いております。