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神楽坂の達人

料亭「千月」 主人/澁谷 信一郎さん 〈前編〉

文化薫る坂と路地の風景に溶け込む、神楽坂花柳界

2011/08/12

神楽坂の表通りより、一本路地に入ると風景は一変します。
日が暮れると昔ながらの黒塀と格子戸に囲まれた料亭に灯(あかり)が灯ります。
褄を引く芸者さんが今でも似合う街。神楽坂の財産である花柳界のお話を料亭「千月」のご主人であり、神楽坂組合理事長 澁谷信一郎さんに江戸っ子気質のテンポ良い語り口でお話しいただきました。

神楽坂花柳界の今昔

料亭『千月』主人・東京神楽坂組合理事長<br>澁谷信一郎さん<br>
料亭『千月』主人・東京神楽坂組合理事長
澁谷信一郎さん
神楽坂の達人、花柳界のお父さん、生まれた時から芸者衆に囲まれて育った澁谷信一郎さん。神楽坂花柳界の奥の深さは一回ではお送りできないほどです。そこで前編を「神楽坂花柳界の今昔」、後編を「料亭とお座敷の心得」と題してお送りします。
それでは前編、「神楽坂花柳界の今昔」をお届けします。

花柳界の発祥と歴史

「千月」さんは、創業何年でいらっしゃいますか?

打ち水がされ静寂さを感じさせる料亭「千月」
打ち水がされ静寂さを感じさせる料亭「千月」
昭和10年の暮れからだから、今年で76年になります。
お客さんを大切にして、神楽坂の料亭として恥ずかしくないよう、格式と伝統を守っています。

平成17年には新宿区商店会連合会推奨「金賞」表彰店にも選ばれていらっしゃいますから、神楽坂の料亭というと「千月」さんと思われる方も多いと思います。さて「千月」さんを含め神楽坂の花柳界の魅力を教えて下さい。

神楽坂の花柳界は、浅草や向島とは違って山の手にあるので、その地の利が特徴のひとつです。神楽坂は、区境にあるんです。文京区には水戸様のお屋敷がありますし、飯田橋のほかは、神楽坂の周りは千代田区側も新宿区側もお屋敷町で、繁華街は神楽坂だけなんですよ。江戸時代からのお屋敷町。
神楽坂は、街全体が一つの山みたいなもので、桃源郷のようだと言う方もいますね。また神楽坂といえば路地と坂のまちと言われる通り、神楽坂に来る方は、料亭のもてなしの路地に惹かれてくる方も多いんですよね。
春夏秋冬それぞれの季節感を伝える料亭や、「もてなし」の文化を継承させている芸者衆が行き交ってこそ「粋なまち」といえるのではないでしょうか。
芸者さんとすれ違うと、江戸の粋と和を感じます。
芸者さんとすれ違うと、江戸の粋と和を感じます。
路地や坂の向こうで、思いがけず芸者さんに会えるかもしれません。
路地や坂の向こうで、思いがけず芸者さんに会えるかもしれません。

澁谷さんは、神楽坂の花柳界はもちろん、神楽坂のまちと共に歩んでいらっしゃったのですね。

実は、現在の神楽坂3丁目に店を構える前に、花柳界の発祥の地といわれる牛込肴町(うしごめさかなまち)、今の神楽坂5丁目あたりに店を構えていました。

神楽坂花柳界の歴史にもつながるお話ですね。

この場所は、今も「寺内(じない)」という呼び名が残っているように、江戸時代に行元寺があった場所です。
そこに茶屋が出来ましてね、次第にお酒を出すようになって「牛込花街」という遊興地になったわけですよ。こんな風に賑わいを見せていた神楽坂の行元寺境内を発祥の地として、花街が開かれたんですよ。
また江戸中期には、花柳界では親しみを込めて毘沙門様と呼んでいる毘沙門天善國寺が麹町から越してきました。江戸でも一、二を争う多くの参詣客が来るようになったと言われていますね。その当時、神楽坂は参拝客で大変な賑わいを見せたそうなんですよ。
その後明治になると、“山の手銀座”と呼ばれた東京一の繁華街になりました。
花柳界の発祥の地である行元(ぎょうがん)寺境内、現在の寺内公園一帯。
花柳界の発祥の地である行元(ぎょうがん)寺境内、現在の寺内公園一帯。
今も昔も神楽坂の中心である毘沙門様
今も昔も神楽坂の中心である毘沙門様

神楽座坂の花柳界は、その後どの様に発展していったのですか?

尾崎紅葉旧居跡。<br>『金色夜叉』は、ここで誕生しました。
尾崎紅葉旧居跡。
『金色夜叉』は、ここで誕生しました。
明治・大正時代の神楽坂は、尾崎紅葉、泉鏡花、夏目漱石、金子光春などの多くの文人や、劇作家でもある坪内逍遥や島村抱月などの演劇人に、美人画で有名な鏑木清方なんかも住んでいて、文学や芸術が盛んになったんですよ。
中でも泉鏡花は、芸者桃太郎との同棲のいきさつを基に「婦系図(おんなけいず)」を書いたくらい花柳界とは縁が深いですね。
神楽坂の花柳界は、文学や芸術などの文化の香りがプンプンする独特な雰囲気をもっているのが、ひとつの特徴と言えるのではないでしょうか。
もう一つ、関東大震災のとき、東京の繁華街と言われる上野、日本橋、京橋、銀座が大被害にあいましたが、当地は奇跡的に被害が少なく焼け出された老舗が集まり、町が賑わいました。
銀座や下町の老舗や名店、白木屋というデパートまで引っ越してきたんです。

戦前の昭和を彩った花柳界

戦前や澁谷さんの子ども時代は如何ですか?

脚本家や小説家の執筆活動の場として愛されてきた和可菜。周囲の石畳は独特の雰囲気を漂わせます。
脚本家や小説家の執筆活動の場として愛されてきた和可菜。周囲の石畳は独特の雰囲気を漂わせます。
昭和12年の頃は、当時料亭さんが150軒もありました。芸者衆や幇間(ほうかん)もあわせて約500人近くもいましたよ。戦争が始まるまでは花柳界も活気がありましたね。
子どもの頃は、路地に入ると三味線の音などが聞こえて、そりゃまあ情緒がありました。寺内に「神楽坂おでん」という有名なお店がありました。それから夜店も毎晩出ていました。その当時は、お屋敷町からも夜になると多くの人が出て来まして、夜店を見に行ったり、映画に行ったり、当時4軒あった寄席も人気がありました。そりゃもう毎日がお祭りのようでした。
その当時、神楽坂には寄席があり、中でも「神楽坂演芸場」という寄席は、柳家金語楼が出演して名をあげた場所でもあるんですよ。昔も今も芸能人が一杯住んでいますが、『ゲイシャワルツ』で有名な神楽坂はん子さんや長唄の杵屋勝東治さんとそのご子息の若山富三郎、勝新太郎ご兄弟、あと花柳小菊さんもいましたねぇ。それから映画俳優や女優も多く住んでいますね。
それから人間国宝の方や能楽、常盤津、長唄、新内、清元、都都逸など、伝統芸能のお師匠さんなんかも住んでいます。
ちなみに都都逸の発祥の地は、藁店(わらだな)だそうです。

華やかなまちなのですね。戦後復興の頃の神楽坂や花柳界は如何ですか?

先の戦災にあって一面焼け野原という壊滅状態でしたよ。残ったのは銀行とほんのわずかな建物だけで、後は全滅。我が家も戦火にあいました。でもね、神楽坂の戦後の復興は早くって、花柳界も神楽坂の復興に力を貸しました。実は神楽坂の焼け野原に何より先に戻ってきたのは花柳界でしてね、日が落ちると三味線の音が響いていたものです。

高度成長期の神楽坂を盛り立て、現在、新たな試みに臨む花柳界

「高度成長」の頃の花柳界は如何でしたか?

毘沙門様の節分祭で、豆まきをする芸者衆。
毘沙門様の節分祭で、豆まきをする芸者衆。
戦後、ゼロから始まった神楽坂の花柳界は、昭和30年(1955)、「高度成長」の声を聞く頃には料亭や芸者の数が戦前の全盛期に近い所まで戻ってきました。
当時は、鉄の時代といわれ、神武景気とか岩戸景気とかで花柳界も好調でしたね。バブル時代を経て、現在の料亭は、今までの格式と伝統を守りながら新しい試みもしています。時代を感じながらも、日本独自の花柳界の和の文化も守りたいと思っています。

具体的には、どの様な活動をされていらっしゃいますか?

花柳界も参加する『神楽坂まつり』の阿波踊り
花柳界も参加する『神楽坂まつり』の阿波踊り
最近は地域と協力し、まちと一体となっている神楽坂の花柳界を、親しみやすいって言ってもらっているんですよ。毘沙門様の節分や夏の阿波踊りなどに芸者衆も参加させて頂いて、一緒になってまちの行事を盛り上げています。「神楽坂をどり」の会では、神楽坂を代表する味の名店にロビーに出店頂いて、来場されたお客さんに神楽坂のまちの魅力を伝えているんですよ。

澁谷さんは神楽坂組合の理事長でもあるので、地元のNPO法人「粋なまちづくり倶楽部」などにもご協力されていると伺いましたが?

「粋なまちづくり倶楽部」さんの企画で行われた平成17(2005)年から始められた「花柳界入門講座」では、私も講演させて頂きました。花柳界に魅力や興味を感じられている方々に来て頂きました。毎回予想以上の成功を収める事ができましたし、それからは、まちの文化祭である「まち飛びフェスタ」を開くたびに、東京神楽坂組合(見番)で、「お座敷遊び入門講座」も開催し、大盛況です。
見番でのお座敷踊り
見番でのお座敷踊り
観光客が記念撮影
観光客が記念撮影

地域の皆さんとも力を合わせ、まちの活性化にご尽力されているのですね。2007年に放映された「拝啓 父上様」は、神楽坂の料亭がモデルのドラマで、こちらにもご協力されたと伺っていますが。

実は、脚本家の倉本聰先生が、私の中学・高校の先輩で色々花柳界の事もお話をさせて頂きました。あのドラマから一段と多くの観光客が神楽坂に来てくれるようになり、賑やかになりました。倉本さんも、あの「拝啓 父上様」のドラマを書かれてから益々神楽坂がお好きになられたようです。皆さんに、神楽坂花柳界の今を伝えることができたのではないかと思います。
路地に惹かれて多くの人が神楽坂に訪ねます。
路地に惹かれて多くの人が神楽坂に訪ねます。
神楽坂で人気の芸者さんだった店主の、気取らず大人カワイイ雰囲気が魅力である「カフェ パティオ」
神楽坂で人気の芸者さんだった店主の、気取らず大人カワイイ雰囲気が魅力である「カフェ パティオ」

一つひとつの活動を積み重ねられているのですね。そして神楽坂の魅力の一つと言われている「神楽坂をどり」について教えて頂けますか。

芸者衆の粋で艶やかな『神楽坂をどり』にうっとり。
芸者衆の粋で艶やかな『神楽坂をどり』にうっとり。
「神楽坂をどり」ですが、これは、神楽坂の芸者衆が、年に1回、日頃の研鑽を積んできた成果を披露する会でして、しばらく開催されていなかったこの「神楽坂をどり」を復活させたんですよ。芸者衆も稽古ばかりではなく発表の場がないと稽古のしがいがありません。
地元、毘沙門天善国寺書院で、「第1回 華の会」として開催できました。まちの皆さんに支えられて、年々来場者も増え、平成19年には、「華の会」の名称を「神楽坂をどり」に戻し、会場の牛込箪笥地域区民ホールを、開催日だけは「神楽坂劇場」という名で呼んでいいと区の方にご理解いただきました。あわせて劇場用プログラムも、出演者の顔写真が全員並ぶかつてのスタイルに戻し、時代を継承できるものが完成しました。

今後、神楽坂組合理事長として取り組んでいかれることをお教えください。

芸者衆には、日々芸の研鑽を積んでもらい、伝統的な芸の継承と発展を神楽坂組合では、取り組んでいきたいと思ってます。そして地域の活動の一つひとつを積み重ねて、まちや地域に一体となって、神楽坂の発展に役立てる存在となりたいと考えています。

※掲載写真は、中河原暉朗さんのご協力によるものです。

しんじゅくノート区民スタッフ:山本はるの