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神楽坂の達人

タイヨウ時計店/青田史子さん

2010/12/22

神楽坂でお店を営んでいる方や神楽坂の在住者のお話を伺いながら、神楽坂の魅力をお伝えする「神楽坂の達人」。

第9回目は神楽坂上交差点に面したタイヨウ時計店の社長、青田史子さんにお話を伺いました。スタッフの北島礼子さんと山下澄(きよし)さんにも御協力いただきました(文中敬称略)。

焼け野原からの出発

戦後まもない創業だそうですが。

やさしい笑顔の青田史子さん。回転するボードはディスプレイも担当する青田さんのアイディア。
やさしい笑顔の青田史子さん。回転するボードはディスプレイも担当する青田さんのアイディア。
【青田】昭和22、23年頃、夫婦で小さな個人店舗から始めました。当時は戦争でこの辺りもすっかり焼けてしまって、坂の上から飯田橋の駅がよく見えたんですよ。

会社を設立したのは昭和42年です。開業当時は太陽堂、会社設立の時にタイヨウ時計店と改めたので、古いお客様は今でも太陽堂とおっしゃいます。

終戦直後ということはものもないし、お客さんもお金がなかったのでは?

【青田】創業当時は配給制です。商品がないので組合を作って、ようやく卸からセイコー社の時計が入ってくるようになりました。お客様も最初はあまりいらっしゃらなかった。そういう時代でした。

【北島】終戦まもなくは時計なんて買えないので、若い人たちは闇市で時計を買っていました。

それがここまで大きなお店になられて。屋根の上の風見鶏が素敵ですね。

【青田】主人(青田吉弘会長)が方位にこだわるので、まあ、目印みたいなものね。
目印の風見鶏。真東を指しています。
目印の風見鶏。真東を指しています。
神楽坂通りを上り、神楽坂上交差点を渡って左手にあります。
神楽坂通りを上り、神楽坂上交差点を渡って左手にあります。

スタッフは何人いらっしゃるんですか?

【青田】私と主人のほか、8人です。うちの人たちには、ずいぶん長く働いてもらっているのよ。北島さんは会社設立当初から。一番長い方がメガネ担当の山下さんで、日本眼鏡専門学校の第一期生でもあるの。

専門の技術者がいらっしゃるんですね。

【山下】こちらで50年以上働かせていただいております。メガネは目の位置や寸法など、お客様が使いやすいように細かく微調整し、お渡ししています。お一人お一人のご要望に応えるために、丁寧に加工、対応させていただきますので、商品をお渡しするまでトータルで2時間ぐらいかかるでしょうか。他店で断られてみえる方もいらっしゃいます。

【北島】「山下さんでなければだめだ」と、遠くからみえるお客様もいますよ。

【山下】お客様に「ああ、いいメガネができた」と喜ばれるのが、一番うれしいですね。

【青田】難しい加工がうちの技術です。土地柄、年配のお客様が多いんですが、特に老眼鏡は難しいので、技術が必要です。流行を追うより、地味だけど確実に、お客様へ良いものをお渡しするのが根本ですね。
様々な掛け時計が違った表情をみせる、通りに面したショーウインドウ。時計を取り付けたボードはパーツごと、360度回転させることができます。
様々な掛け時計が違った表情をみせる、通りに面したショーウインドウ。時計を取り付けたボードはパーツごと、360度回転させることができます。
メガネのプロフェッショナル、山下さん。お客様のどんな要望にも応えます。
メガネのプロフェッショナル、山下さん。お客様のどんな要望にも応えます。
木のフレームが珍しいオーストリア製のメガネ。都内でも扱っているのはほんの数軒しかありません。
木のフレームが珍しいオーストリア製のメガネ。都内でも扱っているのはほんの数軒しかありません。
広々とした店内に、メガネ、時計、ジュエリーなどの各コーナーがあります。
広々とした店内に、メガネ、時計、ジュエリーなどの各コーナーがあります。

メガネのほか、時計や宝石も扱っていらっしゃいますね。

【北島】メガネのレンズ交換、時計の電池交換、ジュエリーの糸通しまで、ここに来ていただければ、すべてできます。この界隈にこういったお店がないので、電池交換できるお店を探してタクシーで回られて来て、やっと「時計屋が見つかった!」と喜ばれるお客様もいらっしゃるんですよ。

【青田】他店で買われた商品でも受け付けております。

技術と親切・丁寧をモットーに

なぜ神楽坂にお店を出されたんですか?

【青田】私が神楽坂のパン屋の娘だったんです。母親が朝から晩まで働いているのを見て、商売の仕事は大変だと思っていました。友達も商店にはお嫁に行かないわ、と言っていたんです。それが、浅草の時計店で修行した主人と知り合って、ここで開業することになりました。

神楽坂をあちこち動いて、この店は3店舗めなんですよ。日本の経済が伸びる時でしたから、それに合わせて規模も大きく。

一代で成長されたんですね。ご苦労も随分されたのでは?

【青田】私よりも、主人の方が大変でした。私は子供がある程度大きくなってからお店に出るようになったので、最初は主人が一人でやっていたんです。当時はお店の営業時間が朝の8時から夜の10時までだったんですが、主人は朝早く起きて、開店前に御徒町の卸の店まで仕入れに行っていました。
ジュエリーのリフォーム、リメイクも受け付けています。写真はオリジナルジュエリー。
ジュエリーのリフォーム、リメイクも受け付けています。写真はオリジナルジュエリー。
時計の修理、電池交換もOKです。
時計の修理、電池交換もOKです。

創業以来、大切にされてきたことはなんですか?

【青田】技術と親切・丁寧を大切にしています。そこを気に入って通ってくださるお客様が、別のお客様を紹介してくださいます。創業当時からのお客様や、親子二代にわたって来てくださるお客様もいらっしゃいますよ。

【山下】お客様第一です。つい最近まで、おつりは常に新品をお渡ししていました。新しいものがないと、会長ご自身がお札をアイロン掛けしたり、硬貨を洗ってお渡ししていました。

【青田】何かお祝い事があると、お金を取り替えて下さい、というお客様がよくみえたわね。

(…絶句。)それほど、お客様を大切にされてきたんですね。

お好みのメガネがきっと見つかります。
お好みのメガネがきっと見つかります。
クリスマスに向けて華やいだ雰囲気の店内。
クリスマスに向けて華やいだ雰囲気の店内。
ご婦人に喜ばれそうな服飾品のコーナーも。
ご婦人に喜ばれそうな服飾品のコーナーも。

夜店で賑わった神楽坂

ずっと神楽坂に住んでいらっしゃって、思い出の光景、というのはありますか?

【青田】子供の頃、毎晩、神楽坂下の交差点からこの店のあたりまで、夜店が出ていたんです。車両通行止になっていたので、歩道側ではなく、道路に向けてお店が開いていて、人が歩けないぐらい、それは賑やかだったんですよ。神楽坂は戦争で全部焼けてしまうまで、今の新宿ぐらいの繁華街だったんです。

そんなに賑やかだったんですか!

【青田】大正の震災で東京一帯が焼けてしまった時、ここは山の手だから残ったんです。それでみんなが買い物へ来て、神楽坂が発展しました。「商店街の品物が全部売り切れた」と、私の母はよく言うのよ。昔は今の銀座みたいに専門店がたくさんあって、遠くからお客さんが来たものです。それが、戦争を境に変わりました。

青田さんにとって、神楽坂はどんな町ですか?

【青田】繁華街から帰ってきて駅を降りると、「ああ、田舎へやってきたな」と感じる、ほっとする町です。明治大正世代は「山の手の下町」と言っていました。商店街があるけれど、落ち着いた町。裏通りへ一歩入ると、今でもすごく静かです。町名が江戸時代のまま残っていて、趣があります。

【北島】道幅がいいです。広過ぎず、しかもお店が並んでいるので、道を渡ってすぐお目当ての店へ行けます。

【青田】ある程度のものはここで全部揃う、便利な町です。観光客の方にも商店街へ足を運んでいただけたら。

お勧めのお店はありますか?

【青田】近所の龍公亭という中華料理店がおいしいですよ。今、3代目が継いでいます。私は五目焼そばをよく食べます。

ぜひ、行ってみます。今日は貴重なお話をありがとうございました!


取材を終えて

82歳になられた青田さんは、世の中の移り変わりを「めまぐるしい」と言います。一方で、タイヨウ堂は創業以来、技術と丁寧な接客を大切に守り続けてきました。その姿勢には、モノや時間が相応の価値を認められていた時代の心の豊かさがあります。

安直に流れる現代にあって、青田さんには豊かな心で生活を楽しみ、文化を受け継ぐ人の実直さを感じました。文化が薫る町・神楽坂の心意気をしっかりと守り伝える店、それがタイヨウ時計店です。

しんじゅくノート内/タイヨウ時計店の紹介ページ