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神楽坂の達人

神楽坂商店街理事長/勝村忠三さん

「商店街の役に立ちたい」という思いで、日々アクティブに活躍。

2013/04/12

「神楽坂商店街のトップ」として日々まちづくりの中心にいる、神楽坂商店街理事長の勝村忠三さん。実は、「自動車販売のトップ」の功績をお持ちだったことをご存知でしたか?今回は、そんな知られざる過去から、神楽坂に対する現在の想いまで幅広くお話を伺ってきました。

実は鉄道員志望だった学生時代

普段は事務所での作業にあたる勝村さん
普段は事務所での作業にあたる勝村さん
-まず、勝村さんの生年月日と出身地を教えてください
昭和18年2月9日。群馬県吾妻郡の山奥で生まれました。

-神楽坂にいらしたのはいつですか
中学を卒業してすぐに。おじさんの家が神楽坂のすぐ近くの払方町にあったので、田舎を出てからそこに下宿していました。

-上京したきっかけは
おじさんが鉄道(会社)にお勤めしててね。ぼくも鉄道員になりたくて、それで東京鉄道学校に。

-高校卒業後はすぐに鉄道会社に就職されたんですか
高校のとき週に1回くらい教えに来てくれた人がいましてね。その人が大学に通わせてくれるっていうことで、鉄道(会社)に入るのを辞めて中央大学に入りました。

-大学を卒業して最初の就職先は
昭和40年に卒業して、その年の4月にプリンス自動車に就職しました。

自動車販売のトップへ――

-具体的にどのようなお仕事をされていたんですか
港区高輪にある本社の会計課に入ったんですけど、座っているのが苦手だったので自らお願いして営業になりました。日産とプリンス(自動車)が昭和42年に合併しまして、2年目にはトップセールスマンとして表彰されました。プリンスには丸3年いました。その後はずっと自営でした。

-営業のトップだったんですね!
はい(照れ笑い)。表彰されたときのご褒美に海外旅行を頂きました(笑)。

-営業をされていたときに心がけていたことはありましたか
もちろん、自分の信念としていたものがいくつもありましたね。その信念を守りつつ、業務に専念していました。

-その信念というのは
「朝駆け夜討ち」ってよく言われてますね。お客様が起きないうちに門の前に着いてね、お客様が出かけるのを待って話をする。あと、夜討ちは家に着いてくつろいだところを尋ねる。そういうことを常にしてました。今はそうはいかないですけど、昔の営業はこういうのがひとつの特徴でしたね。あとは、新車を納車しますよね。その納車祝いを自腹切ってめちゃくちゃ派手にしてあげたり、色々こどもにお土産持っていったりすることで、お客さんが次のお客さんを紹介してくれるんですよ。「親戚が車買いたいからどうか」とか。

-その紹介でお客さんを増やしたんですね
そうです。それでどんどん根が張っていった感じですね。月に新車販売10台以下っていうことはなかったです。

すごいですね! 1番売っていたときはどのくらいでしたか
15・6台くらいでしたかね。

苦労だらけの自営時代

-プリンス自動車から自営に移ったきっかけは
車を売っているときのお客さんが、印刷に使うパウダーや化学製品の販売をやっていて、その商品をわけてもらって自分で印刷会社を興したんです。そこで少し儲かったもんだから、喫茶店出したり居酒屋出したり。

-自営に移って苦労もありましたよね
苦労だらけ。毎日苦労した。

-特に大変だったのはどんなことでしたか
やっぱ経営ですよね。チェーン化っていうのは、サブが、自分の下がしっかりしてないとダメなんです。ぼくは、そのサブを育てないでやった。だから失敗したんです。チェーンになるときは、必ずサブという自分の腹心がいるんですよ。その腹心がどんどんチェーンを大きくしてくんですね。そのサブを作らないで、蕎麦屋さんとかほかの業種にも手を出しちゃったんですね。だから自分が大変だった。

-ほとんど勝村さん一人で取り組んでいたんですね
そうそう。だから大変だった。1日4・5軒の店を歩かなきゃいけないし、人がいないときは現場に出なきゃいけないし。

病気がターニングポイントに

-今は神楽坂商店街の理事長でいらっしゃいますがそのきっかけは
商店街で商売させてもらって、商店街のためにいくらかでも役に立とうっていうんですかね。副理事長を長年ずっとやってきて、現理事長が病気になってしまったので、その後やむなく継ぎました。

-理事長を務めていて大変なことは
理事長になり立てころは、意見の集約ができないんですよ。だから、理事長になってまちをまとめようとしても、100人も組合員がいて、100人の意見はまずまとまらないです。だから、大多数の意見を採用する感じですね。反対する人は、初めから何しようが反対。そういう人はいっぱいいるじゃないですか、世の中には。なんでも反対。けんか好きな人は、けんかしたくて仕方ない。色々な人がいる。みんなが一国一城の主。社長さんの集まりですから、そういう人たちの意見はまとまることがないんですよ。だから、みんなの意見、大多数の意見を集約しようとしてました。

-一方でやりがいもありますよね
それはありますよ。イベントでも、大きな催し物をやるときは、みんなが協力してくれる。楽しいですね。実は、病気になって1ヶ月くらい入院してたんですね。それで自分の考え方がガラッと180度変わったんですよ。

-そうだったんですか?! 病気をきっかけにどう変わったんですか
それまでは物事を深く考えすぎて、うつ病になってしまったんですよ。今世の中にうつ病っていっぱいいるじゃないですか。いろんなタイプのうつ病があるんですけど、ぼくの場合は考えすぎたうつ病。それがパパッと治っちゃった(笑) それからはもう、180度考え方を変えて、一切悩まない。

-ちなみに、病気になったのは何年前くらいですか
2年…、3年くらい前だったかな。

-悩んでいた内容は商店街に関することだったんですか
商店街のことも、自分で無理矢理仕事を探したり、年甲斐もなくやりすぎましたね。でも考え方を変えてから、何の心配もしなくなって人から何か言われてもきにしなくなった。今では夜に悩んで眠れないということはない。

-ということは、前は眠れないほどだったんですね
前は、眠れない日が続くこともありました。でも、考え方ですよね。人間は精神的な動物じゃないですか。考え方を何かのきっかけでガラッと変えると全然違う。

-昔から考え込むタイプだったんですか
うん、そういうタイプだったね。自分で事業をいくつもやってたでしょ、慎重にかからないと上手くいかないから。今はもう理事長だから、みんなが一緒になって協力してくれるね。

神楽坂への愛情

坂上からは神楽坂の街並みが一望できる
坂上からは神楽坂の街並みが一望できる
-ところで、今の神楽坂はチェーン店も増えて雰囲気が変わりましたよね
チェーン店や大手が何軒か入ってますけど、時代の流れでしょうがないと思いますよ。でも、この神楽坂は歴史と文化のまちで昔と変化はないですね。どんどん良くなってる。人口はどんどん増えてますよ。マンションもいっぱいできて、それから平均年齢も若くなってますし。あとは、この辺の道路の道幅がね、ちょうどいいんですよ。4メートルぐらいで狭いじゃないですか。だから、ヒューマンスケール、人間性に優れたまち。人間が立つでしょ、そうすると両眼で両サイドのまちが見渡せる。まちづくりにちょうどいい広さですね。さっきも話したけど、神楽坂は歴史あるまちでしょ。その歴史と現代がうまく混在している。それに、メイン通りはもちろんのこと路地にも店がたくさんできて、皆さんが食事しに来てくれて。こんなまちなかなか他にはないですよ。神楽坂は路地に入っても厚みがありますよね。

-そうですね。いろんなお店が合わさっていますよね
そう! うまく融合してね。

-昔から住みやすいですよね
交通面がまず第一に挙げられますよね。飯田橋駅には6線入ってるでしょ。有楽町線・JR…、交通の便は最高ですよ。それから、買い物のまちとしても大きなスーパーが何軒もあって、近隣の皆様も住みやすいんじゃないですか。多少物価は高いかもしれないけどね。

-今後神楽坂はどんなまちになっていくと思いますか
神楽坂は非常に景色のいいまちでね、清潔感溢れた景観が非常にすばらしい。これからも大きな変化はないと思います。ただ、高層ビルが飯田橋のお濠のほうまで来てるでしょ、それがこっちにも来るとは思うんですけどね。でも、近い将来にはないと思ってるんです。

-理事長という仕事は続けていきたいですか
いや、もう…(笑)。後継者がいればいつでも(笑)。ただ言えることはね、ぼく今仕事してないじゃないですか、テナント業だからアパート貸したりしてるだけで家賃が自動的に入るから。自分でお店をやっていると理事長は大変なもんですよ。

-理事長の仕事を継ぐまでに、まちづくりにおいて遂げたい目標はありますか
まちづくりに目標設定は難しいね~。防犯カメラの設置や表通りの景観整備の強化とかイベントとかをやっていきたいですね。ハード面・ソフト面両方をやっていかないと。
神楽坂ってまちはあんまり広くないし、なんとなく趣があって良いですよ。もっともっと、お客さんに好かれるまちになってほしいね。
「昔も今も常にアクティブだなぁ」というのがインタビューを終えての率直な感想。前職の自動車販売においても、現在の神楽坂商店街のトップとしても、フィールドは違えど任務を全うする姿には感銘を受けました。トップとしての苦悩や病気と闘いながらも、それを乗り越えた勝村さんにもう怖いものはない。今後も活躍のフィールドが待っていることでしょう。
しんじゅくノート学生記者 藤井志帆